伝統の和ろうそく「ろうそくの語る科学」燈火の歴史

参考文献

燈芯と燈明皿 柳田國男

太平記

太閤記

ろうそくの語る科学 マイケル・ファラデーなど

 

 

芯のついての説明
・燈芯
燈芯草(イグサ科)より表皮の中にある「ズイ」の部分を取り出したもの。

燈芯草は3種類あります。
      1.柔道場等の畳の表に使用します。七島藺(琉球藺)
      2.一般家庭の畳の表に使用します。丸藺
      3.伝統の和蝋燭に使用する燈芯草

1本づつ刃と手で髄(ズイ)を抜き出す為、太く栽培する必要がある為、田植え時の隙間は33cmで丸藺と比較しまして2倍の広さです。
植える深度も分藺を押える為8cmこちらも丸藺の2倍の深さです。
収穫時は丸藺の様にドロ染めをする事もなく、天日乾燥の後梱包する。
丸藺と燈芯草との違いです。

 

 

「万葉集」には、燈し火に関する歌がいくつも納められている。

燈火の 影にかがよふ うつせみの 妹が笑まひし 面影に見ゆ

燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蝉之 妹蛾咲状思 面影尓所見

燈火に寄せる恋。

燈の火影に揺れ輝いている、生き生きしたあの子の笑顔、その顔が、ちらちら目の前に浮かんでくる。
きわめて印象鮮明な歌である。事象だけを述べた歌の強みである。女の形象が燈火の影の中にあるので、図柄は明確な線の中にあるのでないけれども、燈火の中にいる女の姿は浮き立つがごとくである。佳作の一つ。

これから女の許に行こうとする時にの想像なのであろか。それとも、ふと相手を思うた時に浮かんでできた姿なのであろうか。女のさような情景を、美しいものとして何回も見た男の詠であることはまちがえない。なお、原文中の「蚊」「蛾」(2回)「蝉」は燈やその周囲に集まる虫を意識して用いられたもの。

燈火
松の脂肪による油に、山吹の軸の芯を乾燥させた燈心とすることは、昭和初期までは存在した。これもその類か。

かがよふ
ちろちら揺れて輝く。原文「蚊」「蛾」などの釈文参照

うつせみ
生身の姿。「妹」の実在感を強めるためのの言葉。

 

 

・奈良時代、平安時代、鎌倉時代、建武の中興時代、室町時代
奈良時代 710年 ~794年  
平安町時代 794年 ~1192年
鎌倉時代   1192年 ~1333年
建武の中興時代 1333年~1338年
室町時代 1338年~ 1573年
安土、桃屋時代 1573年~1603年

 
安士桃山時代の「燈明」は 燈芯を使用。
美しい明かりはまず燈明皿(とうみょうさら)と呼ぶ小皿に油を注ぎ、それに燈芯をいれて浸し一端を皿の縁に乗せて出した火を点す。室町、安土桃山時代は、それ程和蝋燭は使用されてなかった。(和蝋燭は高価であった為。)

 

 

・芯(しん巻き)
木のくし、竹のくしに和紙(紙)を巻き、その上に燈芯を巻く、
その上に、真綿をかける。
和蝋燭の太さにより、芯の大きさもかわります。

 

 

・芯切り
伝統の和蝋燭は切りが必要である。これは芯切りによって炎が正常にする為である。
浄瑠璃や芝居の舞台でのような蝋燭を立てた所には、必ず一人の芯切りの男が、あちらこちらと走りまわって芯を切りました。
燭 台の下にはまた切った芯をを入れるための、蓋のある火消壷のようなものがついていて、昔はこれを「ほくそほとぎ」といいました。
ホトギは壷のことでたいていは土焼きの器、後には真鍮などの立派なものができました。
燭 台と芯切りとこの壷と、三つ揃えて一組になったものが、かっては普通の家庭の欠くべからざる道具になっていた。

 

 

・巻掛け・巻き掛け
蝋から蝋燭を造るには、その芯に何度も蝋燭を塗り重ねることをいう。
蝋燭の大きさは、蝋の掛けた重さで何刃掛けというように表現した。
伝統の和蝋燭のつくり方である。

 

 

【樹木和名孝】
昭和48年11月20日
  
著者 白井光太郎
発行者:内田 悟
発行所 :内田 光鶴圃 井上書店(大日本印刷)
鹿児島県立図書館 昭和49年3月22日

 

 

【ウルシ】
大和本草批正に伝、漆弓にも作るべし、質白く心黄なり、〔ハジ〕今はハゼと云、漆の一種也漆にまける人、椿などにもまける也。

吉野ウルシは、性よきゆへ彩色、又朱ウルシに用ひ、奥州、水戸は、性つきゆへ物をつぐに用ひ。
セシメウルシと云う中華のウルシは甚下品となり本邦漆器を賞すること。
遵生八牋に伝へり、流球は可なり。

 

 

【南島偉功伝】
明治32年6月15日発行
発行所:誠之堂書店
発行者:伊藤光次
著者:西村時彦
鹿児島県立図書館
※樹木和名孝及び南島偉功伝の本は貸し出し及びコピーはしてはいけないとの事。
閲覧のみとの事(岡崎図書館より)

 

 

燈芯と燈明皿   柳田國男 著
 油を入れ燈芯をともす皿をスズキといていました。行燈の下から3分の2くらいの高さにでした、これも地方によりまた時代によって、いろいろの違いがあったようです。茨城県の方では挑燈のことをオッペシアンドウといっている事が『俚言集覧』にに見えておりますが、それは行燈をおし潰したという意味だけでなく、行燈ももとは桃燈の一種だったからであります。

 アンドウのアンは行くという字の南方支那音で、元来下げて歩き回り近距離用の燈だから行燈と名づけたのです。
 後に危ないからといって持ってあるく習慣がすたれ、おいおいと後のランプのようなに、一つ処に置いて使うようになりましたが、持ったあるくものだから下げる把手が附いているのです。
 土佐の坂本竜馬の最後にも、行燈をもって出たと心を斬られたということは人がよく知っていますまたかの『猿蓑』の有名な連句にも
  草むらに蛙こはがる夕まぐれ
  蕗の芽とりに行燈ゆりけす
というのがありますして、お客でもあってちょっと蕗の芽をとりに、行燈を下げて暗い庭へ下がりて行ったら、蛙が跳ねてのに驚いてゆり消したというので、もとは桃燈ほど遠くへは下げて出ないまでも、そのへんをちょいとあるくという時に、ちょうど今日の懐中電燈の役目をしていたのであります。

 その用途が後でにはボリボリといったり、手燭といったりする小行燈というのが始めたできた時には、むしろ奥の間で物を捜したり、土間に落ちてものをみつけるような用途が、主ではなかったかと思いますそれがしまいには家の中の、きまった場所に置いて使うようになって、形も大ぶりで下がり重く、台に引き出しもあるような1つの家具になっのであります。屋外に持った出るのは高くて土に引きずるようでも困るし中ほどの木に油皿を載せておけば油もこぼれやすいわけですから、前には多分行燈の底をくぼめて、その上に燈蓋皿を置いたのかと思います。台に引き出しもなく足ごく短く、丈の低い底に板のおいてあるものが、今でも絵などの中に残っています。

 行燈とともに思い出すのは、燈芯というものの珍しい形であります。
 子供は誰でも面白いがって、よく手に取っておもちゃにしようとします。
これは藺という草から抜き出したもので、それゆえまたこの草を燈芯草ともいいました。
これへ油を吸わせたものは、端の方からよく燃えるので、その火を油皿の縁のところで押えておくと、そこでとまって明るい焔になるのです。軽くふわふわとした長い細いもので、それで痩せた男などというおかしな名もありました。空気の中長く出してあるとその細いのがさらにまた痩せて細くなるので、黒い紙に包んで引き出しの中にしまっておりました。明礬を熱い湯でにといた中に、黒い紙に包んで引き出しの中にしまっておりました。一度浸してから乾かすと、痩せを防ぐことができると古い本にも出ています。値段もほくちんと同様に、商品としてこんな安いものは他にないといていましたが、昔の人たちはそれさえ倹約して通例お客でもある時は二すじ家の者だけで仕事をする時は一すじに減らして、三本も燈芯を入れるようなお嫁さんは、経済を知らぬ女のように悪く言われました。燈芯が大切なというよりも、多くしておくと油のヘリ方が大きいからであります。それさえ構わなければ相応にあかるいものなのですが、通例は燈芯を倹約するために、行燈はうす暗くものと言われていました。
寝る時なはむろん吹き消しますが、赤ん坊でもあるか、まだ還って来ぬ人があれば、有明かにして残しておきます。そういう時はなるたけ細い一本あかりにしまして、他の燈芯は燈芯かきで、脇の方へ寄せておきます。こういう加減があるので、たびたび行燈の中に手を入れ、そのためにまた丸行燈が便利だったのであります。

 この燈芯が油皿に浮いていると、油がよく泌まずまた火が動きやすいので、その上に燈芯押えというものをのせて、たいていはこれを燈芯_きと兼用にしました。行燈の火を_き立てるには、その燈芯押えをつまんで燈芯を前へ出し、暗くするのにもそれで後ろへ下げます。
 いつ頃からかわかりませんが、この燈芯押さえには白い瀬戸物の観音の象にかたどったのもありました。
 普通は下の方が輪になった棒みたいなもので、これもちょっと珍しい形でした。親たちは行燈をもっと明るくせよ、または暗くせよと言いつけられました、燈芯を動かすのが女や子供の役目であったことは、多分古い世の松の火から引きつづきと思いますが、それは決して不愉快な任務でなかったことは、私などもよく記録しております。
燈蓋または燈明皿というものは、昔は一枚のものだったらしく、古い絵巻にみえているのは、多くは木を三本組み合わせた上に、皿を一つだけ乗っています。ところが近世のリントウとかは、スズキ皿とかいうのは、どこでも上下二枚の皿を重ねております。
足利時代にできた『真俗雑記』という本には、油皿を二枚重ねて下の皿に水を入れておくと明るいと書いてあります。
 もうあの頃から燈明皿を二重にする風習が始まっていたものとみえます。
実際には上の皿に燈芯を入れて場合、燈芯の吸い上げる力で油が上に集まり、それが皿の裏へ廻って下へ滴たるのを防ぐためにそうしたもののようで、もとは下の皿に溜まった油を、上の皿はへ戻しているのをよく見ました。それまでまだ油は物を伝って流れやすいので、行燈の底には別にまた行燈皿といって、上から落ちるものを受ける大形の皿があり、これがまた家々の欠くべからざる道具の一つでありました。
その皿は普通は瀬戸もので、これに簡単な絵模様が描いてありました。
近頃では珍しいものになって、それをたくさん集めて喜んでいる人さえあります。
柳宗悦さんなどが言い始められたゲテモノは、こういう行燈皿などの中に多いのであります。

 

 

 

 

【太平記】
中堂常灯滅ゆること扞びに所々怪異の事(巻第五)あさましやな、新常灯と申すは、先帝臨幸の御時、御叡信のあまりに、古  桓武皇帝の御自ら挑げさせ給ひし常灯に准へて、御手づから百三+三筋の灯心をかさね束、銀の御器に油を浸へて、かき立てさせ給ひし常灯なり。

 

 

 

 

【太閤記】
呂尊より渡る壷之事
泉州堺津菜屋助右衛門と云し町人、小琉球呂尊へ去年夏相渡り文禄甲午、七月廿日帰朝せしが、其比堺之化官は石田木工助にありし故、奏者として唐の傘、蝋燭千挺、生たる麝香ニ疋上奉り、御礼申上、 則  真壷五懸御目しかば事外後機嫌にて、西之丸の広間に並べつ、壱千宗易などにも御相談有て、上中下段に代を付けさられ、札をおし、所望之面、誰によらず執候へと被仰出なり。依之望の人、西丸に祗候いたし、代付にまかせ五六日之内に悉  取候て、三つ残しを、取帰侍らんと、代官の木工助に菜屋申ければ、吉公其旨聞召、其代をつかはし、取って置候へと被仰しかば、金子請取奉りぬ。助右衛門五六日之内徳人と成にけり。

 

 

 

M・ファラデー ろうそくの語る科学   岡 邦雄 訳  平凡社
MICHAEL FARADAY
CHEMICAL HISTORY OF A CANDLE
著者 略歴
イギリスの化学者、物理学者。(1791~1867年)

 ファラデーはロンドンの近いニューイントンの貧しい鍛冶屋の子として生まれた。1840年、13歳の時、本屋の小僧となり、のち製本屋の従弟に転じた。そして自分が綴じることを命じられた本のページをとおして、科学の原理を知った。
 化学者ハンフリー・デービーに知られる機会を得、1813年王立協会の助手となり、23年に王立学会の会員に列せられ、25年に王立協会実験所長となった。
 その主著《電気学の実験的研究》(全三巻)の最初の一節が公にされたのは31年8月であったが、これはその後20年間書き続けられた一種の研究日誌ともいうべきものであり、55年、5430節を教えて終わった。
 彼を19世紀最大の物理学者たらしめた、いずれも画期的な三つの大発見、すなわち「電磁誘導」(1831年)「電解の法則」(1832~33年)および「静電誘導」(1837年)は、すべてこの《電気学の実験的研究》に不朽の言葉をもって記録されている。中から炎に関するものを抜粋した。

・ 炎はいったいどんなふうにして、燃焼物(蝋)をつかまえるのでしょう、そこには一つの美しい秘密があります。「毛管引力」です。
燃料を燃焼の起こっている場所に持ち込み、しかもそこへ出たらめに置くのでなくて、燃焼がそれをとりまいて行なわれるちょうどその中心にみごとに置く力を言う。
・ ろうそくについて知らなければならないもの一つの条件燃料はこのさい蒸気の状態になっているということ。
・ 炎の形について、ろうそくの実質が結局は芯の上端でどういう状態になるかを知ることが、肝心です。そこで燃焼によって、すなわち炎によってでなければ見られない美しい光輝が見れます。例えば、金や銀のまぶしく光る美しさ、ルビーやダイヤモンドのような宝石のもっとすばらしい輝きを知っています。けれどそのどれ一つとして、この炎と、その光輝と美しさを競うものはありません。どんなダイヤモンドが炎ほどに輝くことができますか?夜、ダイヤモンドが光るのは、じつにそれを照らす炎のおかげなのです。炎の闇(やみ)に輝きますが、ダイヤモンドの光はそれに当って輝き出すまでは何ものでもないのです。ろうそくの光だけが、自分で、自分のために、またその原料をととのえたもののために光るのです。
・ 芯の種類によって炎の形が変わります。
・ 伝統の和蝋燭は木蝋(純植物性)の原料を使用し、芯においては燈芯を使用します。
・ M・ファラディーはパラフィン(石油)でテストしたと思います。
・ ろうそくを消すとき臭い。これは蒸気が凝結するためである。
・ 蝋の種類によってもいやな臭いがするものもある。

 

 

〔燈火の歴史〕  M・イリーン


・ ろうそくの炎の秘密
 発明家たちは最初は、油ランプを改良しようと努力した。良いランプをつくるために、第一に知っていなければならないことは、油をが燃えるときにどんな現象がおこるか、ということであった。彼らは、燃えるということはどいうときにどんな現象がおこるか、ということであった。彼らは、燃えるということはどういうことであるかを、正確にしらねばならなかった。この問題が完全に解決されたときに、はじめて、良いランプが現はれ始めたのである。
 燃えている一本のろうそくを、びんのなかに入れてフタをすると、ろうそくはしばらくの間は、よく燃えている。だが数秒間たつと、炎小さくなり始め、ついに消えてしまう。このろうそくを外へ取りだし、再び火をつけてびんのなかへもどすと、今度はすぐに消えてしまう。そうしてみると、びんのなかにはまだ空気があるが、炎を生ぜしめるのに必要な、あるものがなくなっているのだ。
 この「あるもの」というのは空気の一つの成分をなすガスである。これを酸素という。
 ろうそくが燃えると、酸素は使い尽くされて、なくなってしまう。だがこれだけではまだ、燃えるということはどういうことであるかを正確には説明していない。ろうそくがすがたを消しており、そのうえに、酸素に何かの変化がおこっている。
 この秘密はなんであろうか?
 そのわけは、ろうそくの炎の消えたことだけが、私たちの目に見えるためである。ろうそくの炎の上にコップをかぶせると、コップの内側はすすでおおわれ、なかに水のしずくができる。これはろうそくが燃えている間に水のほかに、もう一つの物質すなわち目に見えないガラスである炭酸ガスも生じる。
 燃えているろうそくをびんのなかへ入れたときには、びんの底には炭酸ガスが集まるのである。そしてろうそくは水のなかで燃えることができないのと同じようにこのガラスのなかでも燃えることができないのである。この炭酸ガスは液体のように、びんから流しだすことができる。
 こうしたあとで、火のついたろうそくを再びびんのなかへ入れても。すぐに消えない。その炭酸ガスの層がまた、たまるまで燃えているだろう。つまり、ろうそくが燃える場合には、ろうそくも空気のなかの酸素も、なくなってしまうのではない。それらはただ、炭酸ガスと水蒸気とに、変化するだけのことである。昔の人々は、このことを知らなかった。
 四百数年前に、燃えるということはどういうことであるかという問題を解決した、ただひとりの人があった。それはイタリアの芸術家で科学者および技術家であった、レオナルド・ダ・ヴィンチである。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
1452~1519年
イタリアの芸術家、科学者
ルネサンス期の芸術、自然科学の万能的な先覚者で解部学、土木工学など広い分野にわたる膨大な数の手稿、スケッチ、素描があり、特に絵画、建築、彫刻においてすぐれた作品を多数残した。絵画には「モナリザ」「最後の晩餐」など。

・ 煙突つきのランプ
 レオナルド・ダ・ヴィンチは、当時すでに、すすが空気の不十分なために生じることを、理解していた。
 そしてまた彼は空気を十分に供給するためには、ストーブのなかに生じるような気流をつくらなければならぬ、すなわち炎の上に煙突をおかねばならぬ、という結論をもえていた。そうすれば熱せられた空気は炭酸ガスと水蒸気とを伴って、煙突を十分に含んだ新鮮な空気は下からはいってくるのである。
 そこで、ランプのほやが発明された。最初のほやはガラス製ではなくし、サモワルの煙突みたいに、錫製(すずせい)であった。しかも、それをガラスのほやのように、ランプつぼへじかにはつけずに、炎の上のほうへおくようになっていた。それから約200年ほどしてから、カンケというフランスの薬剤師が光を通さないこれまでの錫製のほやのかわりに透明なガラス製のほやを使うという、すばらしい考案をした。
 しかし彼でもさえ、このほやは透明であるから、もっと下へさげて、ランプつぼへじかにくっけることができるということには気づかなかった。
 諸君は、こんなことは誰にでも一目でわかることだと思うだろうが、それから33年もたって、アルガンというスイス人が、はじめてこのことに気づいたのであった。

・複雑なランプ
 だから、ランプは一部分ずつ、徐々につくられたのである。最初は油を入れるつぼだけ、そのつぎには芯(しん)、最後にガラスのほやという順であった。
 けれども、このガラスのほやつきのランプでさえも、あまりよく燃えなかった。
 それはろうそく一本よりも明るくなかった。油がぐあいよく芯へ上ってゆかなかった。その上り方は、私達が使っている石油よりも、ずっと悪かった。しかも、当時は石油が世界中のどこにもなかったのである。
 吸取紙を石油のなかと融けたバターのなかへと、浸してごらん。そうすれば、石油のほうがずっと速く吸い上げられることが、わかるであろう。油ランプの炎が小さかっとのは、油が芯へのろのろと上っていたためなのである。
 そこで、油が自分からすすんで上ってゆかないとすれば、なにか方法を考えて、これをむりやりにもっと速く芯に送りこむように、しなければならなかった。この方法を考えだしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチよりも50年後の数学者カルダンであった。
 彼の考えは、油のつぼを燃え口の上のほうにおくことだった。こうすれば、たるの飲み口から水が落ちるように、油は重力によって、炎のところまで流れ落ちてくる。
 そこで、彼は、油流れ落ちる小さな管(くだ)で、油つぼと燃え口とをつないだのであった。カーセルという別の発明家は燃え口へ油をむりやりに送りこむために、ポンプを使うことを考えついていた、精巧な機械装置を考案した。
 それは時計仕掛けで動くランプで、これでもって油を燃え口へ、むりやりに燈台で使われている。それはこのランプがきわめて一様な光を出すからである。最後に、第三番めの発明家はランプのつぼのなかへ一個の輪とばねを入れた。ばねが輪をおし、輪が油をおし上げて管から燃え口へ油をむりやりに送りこんだ。この式のランプは、ごく最近まで使われていた。私たちの祖父母もこれを使っていたのである。

 空気がろうそくに触れると、それはろうそくの熱のために生じた気流に押されて上昇します。それは蜜蝋、獣脂、またはその他の燃焼物の外側を冷やすのでそのふちは内側よりずっと冷えています。
 その中心部は、炎ために溶けていますが、外側の部分は溶けません。この場合は燃焼のできなくなるところまで芯に伝わっておりていくのです。もし気流を一方の側だけにつくるようにすれば、うえに述べた杯は傾き、液(溶けた蝋)がそこからこぼれます。なぜなら、この宇宙を統合している同じ重力が、この液体を水平にしているのですが、杯が水平でなくなれば、液体は当然こぼれ落ちることになるからであります。上昇気流のいくつかの働きのりっぱな実例をみるでしょう。
 それはろうそくの片側に小さいこぼれ口が出来、そこが他よりも厚くなっている場合です。ろうそくが燃えていくと、その部分が残って、その側に小さな柱のようにつき出してきます。なぜなら、そこが他の蝋や燃料の部分よりも高くなると、風当たりがいっそう強くなり、よけいに、冷やされ、すぐ近くに働く熱の作用にいっそうよく対抗するようになるからであります。